溢れそうになったら零せばいいと言う。
 受け止めてやるから。

 それがあまくひろがると、しっているから


   002:幾度となく口を閉ざしても、零れ落ちそうになる言の葉

 がたんと列車が揺れた。刹那にふわりと香水が鼻先をかすめ、柔らかい感触が頬へ吸いついた。手元の文庫本に目線を据えていた都庁が怪訝そうに振り向こうとする。その頤を新宿ががしりと抑える。要領よく負荷を回避する新宿だが指や手は男らしく固い。力も強い。思わぬ固定に都庁が焦るが視界を向けられない。その上吸いついてきた柔らかな間からぬるりとあたたかくぬめる感触がしてさらに驚いた。文字通り飛びあがった都庁に新宿が声をあげて笑った。頤の拘束も解かれて都庁がようやく顔を向ける。新宿が座席の上でげらげら笑っている。なんなんだと頬を拭えばしっとりと湿って、それがなんであるか気付いた都庁は瞬時に赤面した。
「なっばッ…――何を、するッ!」
わなわなと震える手元から落ちた文庫本がばさりと乾いた音を立ててページが折れる。新宿が拾おうとするのを都庁が掻っ攫うようにして拾う。怒りで瞬時にいきわたった熱量で四肢は機敏に動いた。
 「なんだよ、前。俺は前が好きなんだよ、だからキスしたんだ」
都庁は口を開かない。新宿は口が上手いから下手に噛み付けば言質を取られる。一度ひどい目を見てから都庁も慎重になった。新宿は鈍くないからそれを知っている。知っていてそのうえで態度を改めようとしないのだから厄介だ。都庁がじりじりと距離を取ろうとあがくのを新宿はあっさりと詰めてくる。色の抜けた茶髪は茶色というより山吹色に透けて室内灯に煌めいた。紫苑の双眸は理知的に輝いて、軽薄な身なり以上に新宿が聡明な性質であることを窺わせる。
「前、前? 前、好きだよ」
押し黙るのを新宿は気にもせずに好きなことを言う。慮れない性質ではないのに新宿はそういった鬱々としたものをしていないような素振りをする。しつこく問い詰めれば配慮していると判るのに、新宿の言動に配慮はないような気さえする。
「好きだな。俺は前が好きだよ、愛してる」
「馬鹿を言うな。お客様にまで気をもたせるようなことをして、お前は」
ひゅうと新宿が口笛を鳴らした。軽薄さを増すだけの仕草が新宿は何故か上手い。苛立ちを示すように都庁の眉が跳ねても新宿は怖じ気もしない。機嫌の良し悪しで態度を変えるような殊勝さはない。新宿は相手に口を出さない分、影響もされない。相手を認めることは相手に認めさせることと新宿の中ではつながっているようだ。
 新宿の指先が都庁の唇をツンと押した。桜色に整った爪先からでさえ香りがした。駅の性質上、新宿は身形に気を配るし流行もそれなりに追う。惑わされはしないが無視もしない。どちらつかずの態度は新宿の性質だ。乗り入れや利用者の多い新宿は細かいことに拘泥しない。
「気をもたせるって意味を感じてくれたなんて嬉しいよ。同じように前にもアプローチしてるのになんで気付かないんだ? それとも気付かないふり? このままの関係がいいんだなんて子供っぽいこと言うなよ」
紅でも塗りつけるように都庁の唇に指先を這わせるのを都庁がほとばしる感情のままに払い落した。平手打ちしなかったのは都庁にも負うものがあると感じているからだ。都庁の爆発にも新宿は揶揄を交えながら相手をする。新宿が相手を排除しようとしたらどれほど厳しいか、多少の付き合いの長さとして知っているつもりだ。その負担を想うから余計に都庁は新宿に対して屈折する。
「前は可愛いぜ? 泣いてる顔も感じてる顔もいいけど、怒ってるのも魅力的だ。いやいやもちろん笑顔が最上だ。お前の笑顔は本当に大好きだ。愛してるってこういう」
「――ッお前は! お前は、会う人皆にそう言う世辞を言う! 嘘をつくことにためらいのない奴の言葉なんか信じられないッ」
言い捨てて顔を背けようとした都庁の視界で、刹那に新宿の表情が歪んだ。都庁の目線が思わず止まって凝視する。新宿の対応は軽薄で、それはどんな攻撃も利かぬという意思表示だ。相手に与える攻撃が、不意の産物であった場合には与えた側にさえダメージが残る。新宿はそういった不慮の場合もちゃんと知っている。だから新宿の態度は明確に変わらない。
「しんじ、ゅ」
「さき」
新宿の紫苑が瞬く。都庁は挽回したい一念だけで恥も外聞もなく音を紡いだ。
「すまな、い、すまない、信じられない、とか言いすぎ…ただお前は、お前は誰にでも好きだとか可愛いとかいうから」
都庁の顔が熱くなっていく。挽回の動機が自分勝手なものに由来することに気付いて更なる羞恥に都庁が恥じた。
 新宿を傷つけてしまったろう、それは辛い。新宿が痛いのは辛い、でもそう思うのは都庁自身の都合だ。都庁は、自分が辛いのが嫌だから新宿を傷つけたくないだけで。それに気付いてしまったらもう都庁は身動き一つ取れなかった。起点であれリーダーであれと律していることでさえ自分勝手なものによるんじゃないか、みんなを振り回しているんじゃないだろうか、それは迷惑なんじゃないだろうか。都庁だって幼子のように傍若無人な我儘や無理難題を無造作に突きつけることなどはないよう配慮しているつもりだ。それなのにこうして気を配ってくれている新宿さえ不用意に傷つけて、自分は何と至らないのだろうと唇を噛んだ。
「さき?」
贖うべきことさえも判らない。何かしなくてはならないことだけが判って他のことは何も判らない。何をすればいいのかもどうすればいいのかも都庁には判らなくて、ただ新宿がなだめるように撫でてくれる頬が羞恥に熱を帯びていく。なんて至らないのだろう。なんて愚かしいのだろう。
 「ばか」
罵倒にはあまりに優しく嫌味には温かすぎる。呆気にとられる都庁の目の前から新宿が眼鏡を掻っ攫った。インテリぶって眼鏡をする仕草は不慣れな者のそれだ。
「だから前は馬鹿だと言うんだよ」
新宿の紅い唇が弓なりに反る。嘲笑というより苦笑だ。それもどこか許容できると言う抱擁を帯びた。それだけで都庁の内部には熱い想いが溢れて、言葉にしなければ伝わらないと知っていても表す言葉さえ見つからない。ただ自分の無知や浅慮を知るばかりだ。戦慄く都庁の唇に新宿は唇を重ねた。震えを帯びるのを甘く食んで湿った舌先が拭う。新宿が触れるだけで都庁の体から緊張が抜けていく。ふわりと香る風の流れに新宿の手が都庁の髪を梳くのが判る。毎朝整える都庁の黒髪を、新宿はこともなげにわしゃわしゃ乱す。額に一房、また一房と髪が下りるのを新宿は愛しむように優しく見つめる。
「俺は都庁前を愛してる。だから前の考えてることも言いたいことも全部全部わかるんだよ」
髪を乱していた手が下りてきて都庁の頬を包んだ。温い侵蝕は友好的に都庁から抵抗の意思を奪っていく。
 「俺が何をするのも俺の意思だ。前が責任を負うことなんて何にもない。責任を全て前に背負わせたら俺は前と対等に向かい合えないだろ? 俺は前を支配したいんじゃない。前に隷属したいんじゃない。同じ位置で笑って泣いて、そういうことを気負いなくしたいんだ。俺は前の隣にいたいんだ。前と同じ高さでものを見たいし感じたいし語りたい」
新宿の紫雷は思慮深く煌めく。火花を散らすような激しさを秘めながらそれを抑制するすべも心得ている。独立性の高さは周囲を認めている証だ。相手に認めてもらうことと認めることの心地よさを新宿は緩やかに指摘し、導いていく。
「前は何でも自分の所為だって考えるんだからな。それは悪い癖だぜ、直せ。俺達はみんな、前の所為だなんて言いやしないぜ、前が泣くのは見たくないんだから。前の隣にいたいって、そればっかりなんだよ、厄介なことに」
周りを見ろよ、前に頼られたいって連中ばっかりなんだ、だから俺はいつも揉めるんだ。新宿が肩をすくめてため息をついた。おどけるような仕草のそれに都庁がふふっと笑う。新宿が都庁の微笑に目を眇めて眉尻を下げる。困ったようなそれでいて嬉しいような。
「俺が前を好きなのも好きになってもらいたいと思うのも、愛してるのだって俺の責任なんだよ。俺は俺の感情の責任は取るつもりだ。俺の意志だ。だからさ、前。お前が気に病むことなんてないんだよ」
他の連中だって振り向いてもらえないからって責任を問うたりしないぜ。新宿はおどけながら眼鏡を取った。都庁の顔に掛け直してやる。その仕草はどこまでも優しく甘く、世界の終りさえ見えない。
 困ったな。新宿が細い眉を寄せて眇めた目を瞬かせる。
「前の涙には絶対に勝てないって自信があるんだよ」
都庁はその時になって初めて頬を伝う流れに気付いた。気付いてしまうともう制御が利かない。どっと溢れる水滴は目頭や眦を問わずに溢れて火照った頬を濡らした。息は吸うばかりで吐き出せずに、不自然な痙攣でしゃくりあげる。情けないと思うのに、叱責しない新宿に甘えたい感情がある。溢れだす感情が形を帯びたかのようにしゃくりあげる。新宿がうつむけようとする都庁の顔を上げさせる。頤を抑え頬に添えられた手がしっかりと都庁と向き合わせる。山吹に煌めく髪や端正な顔立ち。柳眉や紫雷の双眸が優しく都庁を見据えている。
「俺は前を愛してる。信じてくれなくても構わないし、信じてくれないからって揺らいだりしない。俺は俺の都合で前が好きなんだ、だから前も自分の都合を優先しろよ」
にっと口の端が吊りあがって悪戯っぽいような顔になる。すれた表情をする新宿には珍しい。

「前、言葉にしてみろ。今お前の中にある感情を言葉にしてみろ、声に出して言ってみろ。そうしたらそれはすぐにほんとうになるから」

声に出せ。言葉にしろ。見えるかどうかじゃないんだ、形を取るんだよ。声や言葉でいいんだ、そうすればそれは本当になるから。
 都庁の紅い双眸が見開かれていく。新宿は無邪気に都庁の言葉を待っている。拒否されるなど考えもしていない。
「…――自分、勝手なんだ…そんなこと、言葉に…できな」
「ばかだな。大抵の奴は自分しか見えてないよ。俺だって俺しか見えない。だからさ、前も無理に抑えるなよ。見えないなら見えないなりに方法があるから。できないことなんてないんだぜ。もしあるなら、たいていは出来ないんじゃない、しないんだよ」
こつんと新宿と都庁の額が触れる。紫雷が間近に煌めいた。
「俺は前を愛してる。これが俺のほんとうだ。前のほんとうも、見せて…?」
「――ばッ馬鹿ッ、私が、私がお前を嫌いだと言ったら、どうする――」
新宿が目蓋を閉じた。睫毛が黒い。密なそれは閉じたまま動かない。都庁に全てを委ねるように無防備に。

「いわない。言わないよ、前が俺を嫌いだなんて、絶対に、言わない」

身動きの取れない都庁の眼前で睫毛が瞬いて紫苑の双眸がきょろりと動いた。
「前は俺を嫌いなんて言わない。わかるよ。判るんだ、だから言って?」
 都庁の口元が震えた。息が苦しい。喉も胸も熱くて圧されて苦しい。震える指先を新宿の腕や顔にあてがうことさえできないのに、新宿の体温を近くに感じる。それがひどく、心地よい。熱いものでとろかすように都庁の緊張や気負いが融かされていく。新宿の体温は高くないのに都庁のあらゆる障りを解いた。
「…――り、んたろ…」
目線を上げて見据えるだけで都庁の双眸から涙があふれた。何の刺激もないのにとめどないそれは泉のように溢れて頬を滑る。情けなく泣きだすのを新宿は殊更に慰めも罵りもしない。ゆっくりと都庁が言葉を紡ぐのを待っている。都庁が新宿に悪態をつく可能性だってあるのに新宿はそれさえ怖がらずに都庁の言葉を待っている。

「――好き、だ…ッお前、が…ッ――お前、が好きだ…」
愛してる。

「前、ありがとう、嬉しい」
新宿の腕がぎゅうと都庁を抱きしめる。背がしなうほど強く、それでいて負担は感じなかった。都庁の首筋へ鼻先をうずめた新宿の唇がくすぐったい。
「お前が俺の全てであってほしい。そして俺がお前の全てになりたい」
あなたを愛しています、今までもそしてこれからも。
 「…――…が、我慢できない…」
情けなく泣きだす都庁に新宿が笑った。
「我慢なんかするな、俺の前で。どんな前でも愛するのが新宿凛太郎だぞ?」
都庁が泣き笑いに吐息を震わせた。こぼれおちるものさえきっと新宿は拾ってくれて、都庁が扉を閉ざそうとしたら開いてくれる。とても嬉しい。そして、愛しい。

「あいしてる」

どちらの声か判らずに溢れた音は言葉に紡がれて。


《了》

なんかもう都庁さん泣かすの好きみたい(病気)      2011年1月23日UP

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